ヘンリー7世
ヘンリー7世のライバル達
King Henry 7
ヘンリー7世胸像/トリジアーノ作/ビクトリア&アルバート美術館蔵
ヘンリー7世家系図
1457年1月28日、ウェールズのペウンブルックシア城で誕生
1485年8月22日、ボズワースの戦いで英国全土を掌握
1485年10月30日、ウェストミンスター寺院にて戴冠
1486年1月18日、王妃エリザベス・オブ・ヨークと結婚
1509年4月21日、リッチモンド宮にて崩御 享年53歳
ヘンリー7世ことリッチモンド伯ヘンリー・チューダーの家系は、三代に渡ってヨーク家
との死闘を繰り返した系譜であった。
彼の祖父オーウェンは、元ウェールズ王家に仕える宰相の家系であったが、15世紀初頭
の「ウェールズの反乱」に連座して後、英国王室に臣従した。
後に彼は、1461年のモーティマーズ・クロスの戦いでヨーク側の捕虜となり、処刑された。
オーウェンの息子であり、ヘンリーの実父エドマンドは1456年、やはりヨークとの戦いに
敗れ、斬首されている。
1457年1月28日、ヘンリーがウェールズのペウンブルックシア城で誕生した時、すでに
父はこの世にいなかった。
母の実家・ボーフォート家は王室の血を引いているといっても、庶子の家系であって、
王位継承権は持っていなかった。しかし流血夥しい薔薇戦争の最中、本家ランカスター家
は崩壊した。
1471年時のランカスター家国王ヘンリー6世は、バーネットの戦いに敗れた後、
ほどなくヨーク側に殺害されていた。
幼いヘンリーもまた、ヨーク側の人質として、1468年頃まで捕らえられていたという。
やがて伯父によって助け出されたヘンリーは、14歳でフランス・ブルゴーニュ地方
へと亡命した。
1485年25歳の時、ついに逆襲に出た。8月7日、ウェールズに上陸した彼は味方を
集め、8月22日、ボズワースの戦いにおいて、ヨーク王朝最後の王リチャード3世を
敗死させた。
同年10月30日、ついにヘンリーはチューダー王朝開祖ヘンリー7世として即位した。
議会は、彼の王位継承を認める条件として、早くヨーク家の王女と結婚するよう促した。
翌年の1486年1月18日、ウェストミンスター寺院において、王女エリザベスを正式
の王妃に冊立した。これによって、ついに対立するヨーク家とランカスター家が合流し
薔薇戦争は終結したのだった。
24年の治世の間、10回の議会が招集されたが、いずれも国王に従順な者ばかり・・。
ヘンリー7世はヨーク側として戦った貴族を反逆者としてその領地を没収し、王室の
財産を増やし、地方大貴族の勢力を殺ぐのと平行して各地に治安判事を置き、中央の
意向を反映させた。
ヨーク公リチャード=========================シセリー・ネヴィル
| | | | |
エリザベス===エドワード4世 ジョージ エリザベス マーガレット リチャード3世
| | (クラレンス公) | (ブルゴーニュ公妃)
エドワード5世 リチャード | ジョン・デ・ラ・ポール
(ランバート (パーキン エドワード (リンカーン伯)
シムネル?) ウオーベック?)(ウォーウイック伯)
しかしヘンリー7世にはまだ倒すべき敵が残っていた。
ヨーク王朝は最後の王リチャード3世が倒れたとはいえ、まだ王位継承権を持つ者が
何人も存在していたからである。その1人、リチャード3世の兄クラレンス公ジョージ
の息子ウォーウィック伯エドワードである。
彼は一説によれば知的障害者と言われており、挙兵することもなく、ヘンリー7世に
よってロンドン塔に幽閉されていた。
もう1人は、リチャード3世の姉エリザベスの息子リンカーン伯ジョン・デ・ラ・ポール
である。1487年、ジョンはランバート・シムネルなるオックスフォードの商人の息子を
行方不明の「エドワード5世」だと称して、これを旗印にダブリンで挙兵した。
しかし反乱軍は同年6月16日、ストークの戦いで敗れ、ジョンは戦死。
「エドワード5世」として担ぎ上げられていたシムネルの方は、許されて宮廷の調理場で
焼き串を回す仕事に従事した、という。
もしジョン自身が、自ら王と名乗って挙兵していたら、ヘンリー7世を打倒することも可能だったろう。なぜそうしなかったのか、謎である。
1495年、今度はパーキン・ウォーベックなる男が、「ヨーク公リチャード」を名乗って
挙兵した。前回とは異なり、パーキンはブルゴーニュ公妃マーガレットから本物である
というお墨付きをもらい、スコットランド王や神聖ローマ皇帝からも支持を得ていた。
1497年、エクセターでの会戦でパーキンは敗れ、ロンドン塔へ幽閉された。
これに懲りたヘンリー7世は、2年後パーキンとウォーウィック伯エドワードの2人を
処刑した。
しかしながら外交面では、ヘンリー7世の活躍はめざましかった。
長年の宿敵だったスコットランドへ長女マーガレットを嫁がせ、逆にスペインから皇太子妃
として王女キャサリン・オブ・アラゴンを迎えた。
ヘンリー7世は、いかにも王朝の開祖にふさわしく、狡猾にして残忍、したたかで計算高く
徳川家康をタヌキというならば、さしずめ狐と呼ぶに相応しい。
しかしながら、この男の経済感覚があったからこそ、英国はその後商業国家として栄える
のであり、また中央集権的政治体制の強化は、統一国家としての基盤を強めたのである。
この男こそ、英国が中世から近世へと移り変わる、時代を生み出した君主であった。
ヘンリー7世夫妻とヘンリー8世夫妻/ホルバイン作模写/ハンプトン・コート
オリジナルは焼失
参考資料/
The Tudor place Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors Petra Verhelst
Encyclopedia by HighBeam
新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書
![]()
![]()