村上龍「半島を出よ(上・下)」幻冬舎  
58回野間文芸賞、第59回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)W受賞
           (あらすじ)
舞台は近未来の2010年、日本はあらゆる矛盾が吹き出て、経済は崩壊した。
街にはホームレスが溢れ、ホームレスを統括するヤクザが利権を求めて跋扈していた。
親を失い、あるいは殺し、身よりを失った少年たちは、九州・福岡のイシハラという
詩人の元に集まった。
その頃、北朝鮮の「反乱軍」であるハン・スンジン率いる9人が、韓国人のツーリストを
装って福岡ドームを目指していた。
目的はドームの占拠。しかし日本政府は、かれらに手も足も出なかった・・・


どうして5分なんだ?
美しい時間は短いに決まっているじゃないか

(半島を出よ/下巻「美しい時間」より)

銃があれば、人は簡単に死ぬ。
(頭でわかってはいても)銃を持たないわれわれには、実感はしにくい現実である。
海外の空港で、わずか20センチの距離にいた迷彩服の兵士の手にある自動小銃を見たとき、
もしその兵士が何かの拍子で撃ったら、私の胴体はちぎれて吹き飛ぶだろうな、と思った。
死そのものですら、われわれが頭に浮かべる時、膜がかかったように非現実味を帯びる。
死の感覚が薄れる時、必然的に生の感覚もまた遠ざかる。

白い布に包まれた柔らかな人間のからだに、
先の尖った鉄の銃弾がものすごい速さでめり込んでいくのが見える

(半島を出よ/下巻「美しい時間」より)

ーーーー冷たい弾が人の体にめりこみ、内側から破壊する感覚。ーーーーーー
グロい映像でも描写でも、この微かな哲学とでもいうべき感触を伝えることはできない。
ましてや文章だけで伝えることは至難の業だろう。
だが、村上龍は、そうした実感と観念というボーダーをやすやすと乗り越えてしまった。

死が、弾や爆発物で簡単に演出できるものならば、生とは何か

やらなければならない何かを見つける事

(半島を出よ/下巻「美しい時間」より)

それは生やさしいものではない。誰かに認めさせる、称賛される、そういった他者と自分との相対的
なやりとりから生じるものではない、いわば絶対的なもの、虚空で叫ぶのにも似た真実である。
もしそこに意味を求めるならば、意味そのものを問いなおさなければならない。
一種、神と対峙する感覚に似ている。
神を理解するために、人は修行をし、滝に打たれ、砂漠を裸足でさまよい、時に命を捨てる。

だが村上龍の描く少年たちは、「何かを理解し、探す」という発想すら思いつかないまま、
手近のものを壊し殺し、結局自分がまったく前に進んでいないことを知るだけだった。
そしてある瞬間、少年たちは、天の声のように、目指すべきものを見いだす。

超高層ホテルとドームの谷間

(半島を出よ/下巻「死者の船」より)

敵の名をコリョという。正式には「高麗遠征軍(コリョ・ウォンジョングン)」
コリョとは、少年たちがつけたアダ名である。
ある日かれらが策略を使って、東京ドームを占拠し、隣接する高層ホテルにベースキャンプを置いた。
その数は、最初は9人、次は500人、数日後には12万人に膨れあがるはずだった。

20人の少年たちは、いずれもこの世と自分とをつなぐ碇(いかり)を失ったまま放浪していた。
いつしか20人は、イシハラというカリスマ詩人の元に集まる。

少年たちは、まるで何かの落ちぶれた悪役のように、目を向けるもの全てに殺意を抱いていた。
その日テレビ画面に映った北朝鮮特殊部隊による福岡ドーム占拠と、増援部隊500人が入ってくるのを、
眺めながら、ざまあみろ、俺たちも北朝鮮を応援しようぜ、と歓声をあげていた。

「頼まれもしないのにあいつらに協力しちゃうと、おせっかいにならないかな」
イシハラはそういって、テレビを指さした。

詩人は一言で万人を打ち負かす

(半島を出よ/上巻「宣戦布告」より)

詩人は指さしながら、奇妙に腰をくねらせ、神の啓示にも似た問いを投げかけた。
少数派とは何か。
多数派とは何か。

おっかさんの子宮にいたころから自分は多数派だーいと思ってきた
あいつは五億回生まれ変わってもわからないだろう。


ここでぼくちゃんたちは宣言しよう。こいつらは敵なんだ。

(半島を出よ/上巻「宣戦布告」より)

ネットでの書評を見ていると、このイシハラと、重要な位置を占める少年カネシロの2人について
ほとんど背景が語られていないくせに、コリョの兵士のつまらないエピソードが多くて無駄だと
の声もあった。だが個人的には「それはちがう」決して無駄なのではない。

確かに前半、上巻は少年たちについての語り以上に、日本政府側とコリョ側の視点が多い。
しかし、これは作者が緻密に組み立てた高度な演出である。
われわれは、感情移入のために、劇がどのような設定で行われているのか、見極めなければいけない。
コリョ兵たちの語りの中から浮かび上がるのは、作品そのものの背景だった。
上巻は、この物語の結末が必然であったと悟るためのステップ台である。
と同時に、われわれはほとんど想像もしない、北朝鮮という現実/日本の抱える矛盾に引きずりこまれていく。
コリョが悲しき人間であるのと同じように、戦いが必然であることを知る。
敵にも味方にも、同等の説得力がある。簡単なようでいて、実は作家としての技量が試される場でもある。
叩きつぶす側の痛みと、叩き潰される側の痛み。両者が表裏一体という脆さ。
特に、強者の立場にしかいたことのない「アメリカの」作家が、もっとも苦手とする分野ではなかろうか。

村上龍は、決して政治的プロパガンダを語りたいわけでもなければ、北朝鮮を批判したいわけでもない。
「愛国的」ですらない。多くの書評が辛口なのは、日本そのものをケチョンケチョンに非難して
いるように見えるからだろう。
実際のところは、現代の日本が抱える問題点を濃縮して羅列しただけではなかろうか

その一方で、中心となるイシハラやカネシロの背景がほとんど語られないのは、この2人が語り部
であり、少年たちの「象徴(シンボル)」であるからだ。
シンボルにも語り部にも過去は無用である。常に物語と平行した「現実」だけが求められているからこそ
あえて過去を切り落とし、単純化したのである。

日本への批判という一点に目を奪われ、そうした作者の仕掛けた高度な演出を見抜けない人々は哀れな
気がする。われわれは、イシハラの啓示とカネシロの生き様という2人の語り部を通して、少年たちを
「今」としてとらえる。
少年たちの放浪と天の声、そして戦いと結末とを。

私はかれらの戦いが好きだ。残酷で熾烈であり、もし私が銃をとったら、こうなるだろうと思いながら
今まで見てきた全ての戦いの中で、もっとも好きな戦闘シーンだと思う。
それはたぶん(あえて理由をつけるなら)戦いの過程において、少年たちが構築していった人生観に漂う
透明感のせいだろう。

村上龍の処女出世作の題名に「限りなく透明に近いブルー」とあるように、村上の筆致にはどこか繊細な
透明感がただよう。われわれは少年たちが安っぽいヒューマニズムを一切語らないことで、むしろかれらに
内在する人間らしさを見いだす。
殺しちまいたい、世界なんか滅びればいい、と言いながら、いかがわしさも邪念も感じさせない。
それは殺傷を目的として、仲間たちすら「狂っている」と感じるカネシロにも言える。
ジプリ・アニメの「もののけ姫」の中に「生きよ、おまえは美しい」というセリフが出てくるけれど
同じように、カネシロの語る破滅の世界もまた、限りなく透明であり、美しい。

これは俺がずっと夢見てきた世界なんだ。
やっと見つけたんだ。
だから俺はここに残る。自分でここを始末する。

(半島を出よ/上巻「宣戦布告」より)

私はこの作品を、10代の子供たちに読ませたい。残酷なシーンが多いけれど、あえてその残酷さから目を
そむけずに、読んでほしいと思った。血と孤独の問いかけの中から、考えるべきものを見いだしてほしい。
人間は簡単に死ぬ生き物だということを。
そして少数派だという気取りは、ある瞬間多数派の傲慢さに変わるかもしれない、という脆さを。

正当防衛だ
そんなんじゃない!

(半島を出よ/下巻「美しい時間」より)

これだけの大長編、複雑に交錯した何百人というキャラクターがいながら、少しも破綻することなく
最後の1行まで美しい小説である。

特にどこが好きかと言われたら、ラストシーンだ。
小さく書かれた文字の中に込められた思いは、敵/味方を問わず、限りない生への尊重と哀悼の気持ちである。
語られずして語る言葉とは、こういった万感の思いを指すのではなかろうか。
ヒューマニズムを声高に叫ぶいかがわしさを、改めて感じる。
読み終わって数日たっても、なお余韻が残る現代小説はこれが初めてだった。

それはおまえの自由だ。

(半島を出よ/下巻「姪浜」より)

しかし人間とはつくづく矛盾に満ちた生き物だと思う。村上龍はホワイトバンドの宣伝に出ているという。
私は「白手起家(無から有のビジネスを立ち上げる)」なる思想は大好きだが、こちらは大嫌いである。

              


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